「山が見ている」



「山が見ている」



「ここにいる」と写真の一部を指さした。そう言われると確かに草木の茂みが人の顔のように見えた。K君の父親との会話は続き、近年所有している道東の山に頻繁に通い、手入れしていることを聞いた。自然と対峙して生まれた信仰心のような自然への敬虔さに下支えされた日々の営みを背景にして、「山の神」という偶像の姿を写真に見出したのだと推し量った。


その言葉が自分の中にこだまし続けていた。後日、山の神を探して久しぶりにその低山に登った。雪を踏みしめながら歩いた。山頂に到着したタイミングで携帯電話が鳴った。K君からの電話だった。降雪と吹きさらしの風で電波が途切れがちになり、すぐに会話を終えた。道中、幾度か視線を感じることがあった。振り返っても目を凝らしても何も見えなかった。幾度かシャッターをきった。山中撮影した何枚かの写真には何かが写っているようにも見えた。まるで山がこちらを見ているようだった。


柳田國男は「先祖の話」の中で祖霊が山の神となって子孫を見守ると述べていた。これを知ってから、自分の来歴について喚起された気がした。山中で確かめようとしていたものへの意識が少し変化した。そういえば地元の集落にも山神の碑があった。しばらくしてからK君の先祖と自分のそれとが東北の同じ地域の出身であることを聞いた。


カメラは写真にしたい風景を画像化する装置である。写真を見る人が能動的にその画像に関与する時、内在している記憶と記録が写真の上で結びつき一定の、限定的な妥当性を有する。その時、私が見ている山がこちらを見ているように語りかけてくるのであろう。