「義眼、白濁す」


「義眼、白濁す」
「義眼、白濁す」
「義眼、白濁す」
「義眼、白濁す」
「義眼、白濁す」
「義眼、白濁す」
「義眼、白濁す」
「義眼、白濁す」
「義眼、白濁す」
「義眼、白濁す」
「義眼、白濁す」
「義眼、白濁す」
「義眼、白濁す」
「義眼、白濁す」
「義眼、白濁す」
「義眼、白濁す」
「義眼、白濁す」
「義眼、白濁す」
「義眼、白濁す」
「義眼、白濁す」
「義眼、白濁す」
「義眼、白濁す」
「義眼、白濁す」


ここで定義を試みたのは価値の相対性である。
価値とは砂時計の斜度である。
コードとは全体の内部にある個の集合体に、ある一定の形式を付与したものである。
付与するのは私である。
このコードは全体に対して一部であるが故に全体の性質を宿しているが、
しかし全体を表すものではない。
砂時計の斜度により流出する砂の量は変化する。

私が言わんとしていることは、微風に四散する砂粒でしかない。
砂粒はそれとしてよりも、集合としてより強い概念を持つ。
砂粒は砂時計の斜度によって、速度と量を変更しながら時間において流出する。

デジタルとは論理的である。実在としてではなく、論理として生成され得る。
相対的な価値観の由来はニヒリズムである。
コード自体の価値を問うこと自体、無益である。

私は一定の基準に基づいてコード化する。
私は私が在る状況においてコード化する。
私は私の志向によってコード化する。
秩序を与える、つまりはコードに押し込める。
砂粒は時間軸において、常に流出し得る可能性を有する。

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言葉とはコードである。
写真とはコードである。
言葉≠写真である。
言葉の林檎は写真の林檎ではない。
砂粒とは砂の一部であるがしかし砂浜ではない。
カメラとは論理である。
カメラとは理性的であり、限定的である。
撮影はカメラというプログラムに従うことである。
撮影は私の論理をプログラム上で実行することである。


私は林檎を齧るだけではなく、
私の齧る林檎と、私自体が在らねばならない。
そして、それを私と林檎を取り囲む状況に向けて提示しなければならない。
私が林檎を齧ることが私を肯定することであるならば。
論理的であることは実在を伴わない。
実在は常に彼岸にある。

私が齧る林檎ではなく、林檎を齧る私でもない。
林檎を齧る私の情動であり、それは笑いであり、踊りである。
それはトリガーであり、先は他者との闘争である。
論理と実在の狭間に横たわる林檎の欠片。

このコードの集合体の定義を提示した時から放棄する。
何故なら他者の林檎は私の林檎ではないからだ。

林檎を砂粒で作る。
砂粒で作られた林檎は砂粒としてではなく、新たなコードとして定義されうる。
そしてそれは砂浜に作られたそれは、どこかの砂浜である。
他者には他者による砂浜が存在する。
私の砂浜はいずれかに在るはずであり、他者の砂浜も彼処に在るのかもしれない。
砂浜が遂には論理的に繋がり、林檎は彼処から眺められ、
そこでまた新たなコードとしての体系を。
有機的な連鎖の中で林檎は転がり、踊り、響く笑い。

2008.02.09

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参考文献
[論理哲学論考]
ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタイン著 木村 洋平訳
株式会社社会評論社 2007.1.30

[写真の哲学のために]
ヴィレム・フルッサー著 深川 雅文訳
株式会社勁草書房 1999.2.25

[光のプロジェクト 写真モダニズムを超えて]
深川 雅文著 株式会社青弓社 2007.6.21